石原詢子の実家の家族は?両親(父親・母親)はどんな人?兄弟姉妹はいるの?

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石原詢子(いしはらじゅんこ)さんといえば、昨年(2018年)デビュー30周年記念を迎え、同年9月5日には30周年記念リサイタルを行い、話題となりました。

そんな石原詢子さんは、ある家元の家に生まれたことをご存知でしょうか。

そこで、この記事では石原詢子さんの実家の家族について、両親(父親・母親)はどんな人なのか、兄弟姉妹はいるのかをご紹介することによって明らかにします

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1.石原詢子の実家の家族は?両親(父親・母親)はどんな人?

石原詢子さんの実家は、岐阜県揖斐(いび)郡池田町にあります。

石原詢子さんは6人兄弟の4番目の長女として生まれていますので、石原家の家族構成は両親(父親・母親)と6人兄弟の8人家族です。

(1)石原詢子の父親は詩吟の家元だった!?

石原詢子さんの父親は詩吟揖水流(いすいりゅう)の初代家元だったため、娘である石原詢子さんは幼い頃から詩吟揖水流の初代家元である父親の背中を見て育ちました。

そんな石原詢子さんは「お父さん子」だったからか、6人兄弟の中でも最も厳しく父親から稽古を受けてきました。

石原詢子さんによると、4歳から稽古漬けの毎日が始まり、小学生時代は学校に行っている時間以外は、朝から晩まで厳しい稽古を受けていたそうです。

石原詢子さんの父親がこれだけ厳しい稽古を長女の石原詢子さんに受けさせたのは、石原詢子さんに詩吟の家元になる資質があることを見抜いていたからではないでしょうか。

石原詢子さんの父親は、娘である石原詢子さんに詩吟揖水流の家元を継いでほしかったのではないでしょうか。

だから、石原詢子さんの父親は、娘が歌手になるために上京することにも反対だったのかもしれません。

そんな詩吟揖水流の初代家元だった石原詢子さんの父親は、後に大ヒットを記録する8枚目シングル「夕霧海峡」が発売された直後の1995年8月12日に、先に亡くなった母親の後を追うようにして、64歳で亡くなっています

石原詢子さんは亡き父親を思い、亡き父親の吟号である「源風(げんぷう)」をタイトルにしたアルバム「デビュー20周年記念スーパーシングルコレクション『源風』」を2007年10月にリリースしています。

石原詢子さんは、詩吟揖水流の初代家元だった父親が生きた証を残したかったのかもしれません。

(2)石原詢子、父親の跡を継ぎ詩吟揖水流の2代目家元へ!!

石原詢子さんは、生前の父親とある約束をしました。

その約束とは、

「50歳になったら継ぐからね」

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というもの。

石原詢子さんにとって、この父親との約束は大変重要なものだったらしく、石原詢子さんは約束の50歳になった2018年、詩吟揖水流詢風会(じゅんぷうかい)を設立し、2代目家元に就任するとともに、詩吟教室を始めました

更に同年9月には、石原詢子さんのデビュー30周年記念の詩吟アルバム「詢風(じゅんぷう)~吟詠の世界~」をリリースしています。

なお、石原詢子さんはもともと吟号を「石原美風(びふう)」としています

もし石原詢子さんの父親が生きていたら、娘の石原詢子さんが詩吟揖水流の2代目家元を継いだことをたいそう喜んだのではないでしょうか。

娘の石原詢子さんもその晴れ姿を亡き父親に見せてあげたかったに違いありません。

(3)石原詢子の母親はどんな人?

石原詢子さんは、詩吟揖水流の初代家元だった父親に比べると母親については、あまり語っていないようです。

しかし、石原詢子さんのブログ「詢子のひとりごと」の中の2016年7月24日(日)付けのタイトル「母の命日」という記事において、石原詢子さんは母親について語っています。

石原詢子さんの母親は、父親が亡くなる約2週間前の1995年7月25日に亡くなっています。

ちょうど石原詢子さんが長い下積み生活を経て、人気歌手の仲間入りすることができるのではないかという時期だったため、両親に自分の歌手としての姿をテレビやステージでいっぱい見せたかったという思いが強かった頃だったのではないかと思います。

石原詢子さんは、2011年4月にリリースした28枚目シングル「逢いたい、今すぐあなたに…。」で初の作詞に挑戦していますが、その際亡き母親の旧名である「いとう冨士子」をペンネームとして使っています。

石原詢子さんには、若くして亡くなった母親が生きた証を形に残したいという思いがあったようです。

したがって、石原詢子さんの亡き母親の名前は、「石原冨士子」さんということになります。

石原詢子さんは先のブログにおいて、亡き母親のことを次のように綴っています。

母の年齢に近づくにつれて、私の母への思いが微妙に変化してきているのを感じます。
もし、今でも母が元気でいてくれたら・・
あんな事もこんな事も一緒に出来たのに・・
そんな思いは21年経った今でも変わりません。
私の中では色褪せることなく母の笑顔、泣いた顔、怒ってる顔、上京するときに見せた寂しそうな顔、一つ一つが鮮明に思い出されます。
そして、母にはちっとも似てない!
と思っていたのに最近、ふとした時や自分の写真を見た時、、「あれ?母に似てきたかな?」と思ったりもします。

そう思うのは私だけかな?

出典:http://junko-ishihara.com/

石原詢子さんの公式ブログ「詢子のひとりごと」のこの記事はこちらです。

「母の命日」

亡くなった人の思い出は、まだ生きている者の心に刻まれているため、娘である石原詢子さんや兄弟姉妹が生きている限り、亡き母親の思い出は色褪せないと思います。

2.石原詢子に兄弟姉妹はいるの?どんな人?

石原詢子さんは、6人兄弟の4番目の長女として生まれていますとご紹介しましたが、6人兄弟の構成はどのようになっているのでしょうか。

石原詢子さんは兄弟の存在については、自身のブログでよく語っているのですが、6人兄弟の構成についてはほとんど明らかにしておりません。

しかし、石原詢子さんは、自身のブログ「詢子のひとりごと」の中の2017年7月25日(火)付けのタイトル「23回忌」の記事において、兄弟の画像を載せています

この画像によると、石原詢子さんの6人兄弟の構成は、長男、次男、三男、長女(石原詢子さん)、次女、三女だと思われます

ただし、「三女」については、画像の中の「三女」が若すぎること、いくつかの情報の中には「三女」ではなく「四男」という情報もあることから、末っ子は「三女」もしくは「四男」のどちらかではないかと思われます

石原詢子さんの公式ブログ「詢子のひとりごと」のこの記事はこちらです。

「23回忌」

3.まとめ

この記事では、石原詢子さんの実家の家族について、両親(父親・母親)はどんな人なのか、兄弟姉妹はいるのかをご紹介することによって明らかにしました

石原詢子さんの父親は詩吟揖水流の初代家元だったため、長女である石原詢子さんは子供の頃から厳しく稽古を受けていました。

そんな父親を説得して、歌手を目指し上京した石原詢子さんでしたが、ようやく成功しかかったとき、両親が相次いで亡くなってしまいました。

両親が亡くなってから23年、生前の父親と交わした詩吟揖水流の家元を継ぐという約束を果たすため、石原詢子さんは2018年に詩吟揖水流詢風会を設立し、2代目家元に就任、詩吟教室を始めています。

石原詢子さんは法事やお墓参りのために、兄弟たちと共に実家のある岐阜県揖斐郡池田町によく帰省しているようです。

天国にいる両親も仲睦まじい6人兄弟の姿に喜んでいるのではないでしょうか。

石原詢子さんの今後益々のご活躍を期待しています。

石原詢子の学歴(出身中学校・高校等)は?結婚歴はある?夫や子供は?

出典:https://ameblo.jp/

石原詢子(いしはらじゅんこ)さんといえば、日本を代表する演歌歌手の1人として知られ、2018年にデビュー30周年を迎えました。

そんな石原詢子さんは、日本演歌界屈指の美人歌手としても知られています。

そこで、この記事では石原詢子さんはどんな人なのかを、学歴(出身中学校・高校等)、結婚歴はあるのか、夫や子供はいるのかについて、ご紹介することによって明らかにします

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1.石原詢子の学歴(出身中学校・高校等)及び偏差値は?

石原詢子さんは高校卒業後、歌手を目指すため、上京しています。

そんな石原詢子さんは、高校を卒業するまで生まれ故郷の岐阜県揖斐(いび)郡池田町の実家で過ごしました。

では、石原詢子さんの出身中学校・高校等はどこだったのでしょうか

そこで、ここでは石原詢子さんの学歴(出身中学校・高校等)及び偏差値をご紹介します。

(1)石原詢子の学歴(出身小中学校・高校)及び偏差値は?

石原詢子さんの学歴は積極的には公表されていないようですが、出身中学校・高校については判明しました。

石原詢子さんの出身中学校・高校及び偏差値は次のとおりです。

出身中学校:池田町立池田中学校(岐阜県揖斐郡池田町)

出身高校:岐阜県立揖斐(いび)高校(岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびがわちょう))→ 偏差値38

石原詢子さんは自身のブログ「詢子のひとりごと」において、2015年から小中学校の同窓会に参加していることを綴っています。

同ブログによると、2015、2016年、2018年に小学校の同窓会、2017年に池田中学校の同窓会が開催されており、石原詢子さんはすべてに出席したようです。

池田中学校を卒業して以来、「35年近く音信不通だった」ようですが、急速に同級生との距離を縮めており、女子旅をするなど同級生との交流を楽しんでいるようです。

しかし、同ブログでは「池田中学校・同窓会」と出身中学校名を明らかにしている一方で、出身小学校名については明らかにしておりません。

そのため、石原詢子さんの出身小学校については、特定することができませんでした

石原詢子さんの公式ブログ「詢子のひとりごと」のこれらの記事はこちらです。

「小学校の同窓会」

「池田中学校・同窓会」

「またまた岐阜です」

2.石原詢子に結婚歴はある?夫や子供はいるの?

石原詢子さんは1968年1月12日生まれの51歳(2019年5月現在)ですので、結婚して成人の子供がいてもおかしくない年齢ですよね。

その上、石原詢子さんはこのような美貌の持ち主ですから、世の男性が放っておかないと思います。

そこで、石原詢子さんに結婚歴はあるのか、夫や子供はいるのかについても調査しました。

結論から言うと、驚いたことに石原詢子さんに結婚歴はないため、夫も子供もいないようです。

石原詢子さんに結婚願望がないのか、良い出会いがなかったのかはわかりませんが、これまで石原詢子さんは結婚したことがないようです。

かつて石原詢子さんは、好きな男性のタイプとして「優しくて何事も一生懸命な人」で、芸能人でいうと西田敏行(にしだとしゆき)さんだと語っています。

また、石原詢子さんのような人気演歌歌手には、彼氏の存在や結婚の事実が明らかになると、男性ファンが離れるおそれがあることから、人気が急落するというリスクがあることもまた事実です。

実際、水森かおり(みずもりかおり)さん、坂本冬美(さかもとふゆみ)さん、市川由紀乃(いちかわゆきの)さんなど人気のある女性演歌歌手には結婚していない方が多いのではないでしょうか。

3.まとめ

この記事では、石原詢子さんはどんな人なのかを、学歴(出身中学校・高校等)、結婚歴はあるのか、夫や子供はいるのかについて、ご紹介することによって明らかにしました

石原詢子さんは、高校卒業後上京するまで地元・岐阜県揖斐(いび)郡池田町で暮らしていたことから、地元の小中学校・高校に通っていました。

また、石原詢子さんに結婚歴はないため、夫も子供もいませんでした。

時代は変わり、結婚のかたちも変化してきていますし、石原詢子さんは美人ですから、結婚するチャンスはいくらでもあるのではないでしょうか。

石原詢子さんの今後更なるご活躍を期待しています。

石原詢子はどんな人?年齢、身長・体重、本名等プロフィール及び経歴

出典:https://atmatome.jp/

石原詢子(いしはらじゅんこ)さんをご存知でしょうか。

石原詢子さんは2回のNHK紅白歌合戦出場を誇る実力派演歌歌手であるとともに、美人演歌歌手としても知られています。

そんな石原詢子さんは、昨年(2018年)デビュー30周年を迎え、中野サンプラザホールで「石原詢子30周年記念リサイタル」を行いました

そこで、この記事では石原詢子さんはどんな人なのかを、年齢、身長・体重、本名等プロフィール及び経歴をご紹介することによって、明らかにします

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石原詢子の実家の家族は?両親(父親・母親)はどんな人?兄弟姉妹はいるの?

1.石原詢子の年齢、身長・体重、本名等プロフィール

出典:https://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/

名前:石原詢子(いしはらじゅんこ)
(「詢子」の「詢」という字には「まこと」という意味があります)

本名:石原悦子(いしはらえつこ)

生年月日:1968年1月12日(年齢:51歳(2019年5月現在))

出身地:岐阜県揖斐(いび)郡池田町

身長:161cm

体重:40kg台半ば(推定)

血液型:A型

星座:やぎ座

趣味:絵画

特技:詩吟(しぎん)(詩吟揖水流(いすいりゅう)師範代兼「詩舞(しぶ)」「剣舞(けんぶ)」の師範代)

得意料理:コロッケ

好きな本:歴史関係(歴史小説、戦国時代など)、推理小説

好きな食べ物:ラーメン

好きな言葉:初心

レーベル:ソニー・ミュージックダイレクト

所属事務所:石原音楽事務所

2.石原詢子の生い立ちとは?詩吟家元の父親を説得し上京!!

石原詢子さんは、詩吟揖水流(いすいりゅう)家元の長女として生まれています。

そのため、4歳頃から父親から詩吟を習い始めましたが、その指導はとても厳しいものでした。

わずか12歳で師範代となった石原詢子さんでしたが、成長するにつれて、これまでどおり父親の言うとおりに詩吟をやっていくことに疑問を抱くようになります。

そのような思いを抱えるようになった石原詢子さんは、父親の元から離れるために家を出たいと考えるようになりました。

そんな石原詢子さんが憧れたのが、「津軽海峡・冬景色」等で知られる石川さゆりさんでした。

石川さゆりさんの影響を受け、「歌手になりたい」と思うようになった石原詢子さんがやらなければならなかったのが、必ず反対するであろう父親を説得することでした。

そこで、石原詢子さんは高校卒業後上京するための準備を始めると同時に、父親への説得を始めたのです。

その甲斐あってようやく父親を説得することに成功した石原詢子さんでしたが、厳しい条件が課せられました。

その条件とは、

  1. 自活すること
  2. 新聞配達すること
  3. 毎日実家に電話すること

の3点でした。

この条件で2年間がんばってみて、ダメだったら実家に帰るよう父親に言われた石原詢子さんでしたが、上京して歌手を目指せることが嬉しくしょうがなかったようです。

3.石原詢子は上京後、下積みを経てついに歌手デビュー!!

歌手を目指し上京した石原詢子さんは、超多忙な生活を送っていたものの、充実していました。

新聞配達だけでなく別のアルバイトもこなしながら、ボイストレーニングやダンス、演技などのレッスンを受け、歌手という夢を追い続けました。

努力が実ったのか、思わぬ形で石原詢子さんに歌手デビューのチャンスが訪れます。

石原詢子さんがレッスンを受けていたボイストレーナーが、レコード会社とマネジメント会社を紹介してくれたのです。

そして、石原詢子さんは1988年10月にデビュー曲「ホレました」でデビューします。

しかし、石原詢子さんの歌手デビューは、輝かしい未来への幕開けではなく、苦難の始まりだったのです。

歌手デビューしたものの、CDの売上が伸びなかった石原詢子さんは、全国のカラオケスナックやカラオケ喫茶を回り、歌を歌ってはCD等を売って歩くという地道な営業をする日々が続きました。

しかし、そんな石原詢子さんにもついにチャンスが訪れます。

4.石原詢子、両親の死を乗り越えNHK紅白歌合戦初出場!!

1994年9月にリリースされた、石原詢子さんの7枚目シングル「三日月情話」が、第27回日本作詩大賞・優秀作品賞を受賞したのを機に翌1995年8月に発売された8枚目シングル「夕霧海峡」が大ヒットを記録しました。

やっと石原詢子さんのこれまでの苦労が報われたと思われましたが、その矢先、石原詢子さんに思わぬ不幸が訪れます。

約2週間の間に、田舎の両親が相次いで亡くなってしまったのです。

ちょうど8枚目シングル「夕霧海峡」がリリースされた1995年8月2日前後のことでした。

しかし、両親が亡くなったからといって、立ち止まるわけにはいかなかった石原詢子さんは、その悲しみを忘れるために仕事に没頭します。

8枚目シングル「夕霧海峡」の大ヒットにより、徐々に知名度が上がり始めた石原詢子さんは、NHK『どんとこい民謡』(司会)やNHKのバラエティ番組『コメディーお江戸でござる』などテレビにも出演するようになりました。

1999年4月にリリースされた石原詢子さんの12枚目シングル「みれん酒」がロングヒットを記録し、第32回日本有線大賞・有線音楽賞を受賞すると、石原詢子さんは翌2000年の第51回NHK紅白歌合戦に念願の初出場を果たします。

石原詢子さんは17枚目シングル「ふたり傘」で、2003年の第54回NHK紅白歌合戦に2回目の出場を果たしましたが、それ以来出場していません。

2007年5月、石原詢子さんは岐阜県の「飛騨・美濃観光大使」第1号に就任しています。

5.まとめ

この記事では、石原詢子さんはどんな人なのかを、年齢、身長・体重、本名等プロフィール及び経歴をご紹介することによって、明らかにしてきました

石原詢子さんは、詩吟揖水流(いすいりゅう)家元の長女として生まれましたが、歌手という自分の夢を追いかけるため、上京して、見事に歌手デビュー。

しかし、デビュー曲は思うように売れなかったため、再び下積み生活に逆戻り。

それでも、地道な営業活動を続けた石原詢子さんは、デビュー以来苦節6年目にして、8枚目シングル「夕霧海峡」が大ヒット。

その矢先、両親が相次いで亡くなるという不幸に襲われますが、その後も努力を続けた石原詢子さんは、2000年の第51回NHK紅白歌合戦に念願の初出場を果たしました。

2003年の第54回NHK紅白歌合戦に2回目の出場を果たした石原詢子さんですが、それ以来出場していません。

石原詢子さんのNHK紅白歌合戦への3回目の出場をお祈りするとともに、今後更なるご活躍を期待しています。